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混乱から安定へ-第二次大戦後の淡江中学

第二次大戦後、淡水中学と淡水女学校は再び教会が管理することとなりました。国民政府による「台湾省私立中等学校管理規則」等の法規により、私立学校は董事会を組織し運営することが義務付けられたため、長老教会は林茂生氏を学校理事長および代理校長として派遣しました。新しい組織のもと、淡水中学と淡水女学校は少しずつ軌道に乗りはじめました。しかし、1947年に二・二八事件が勃発し、林茂生董事長、陳能通校長、教師、生徒らが事件に巻き込まれたため、校務や学校運営は大混乱に陥りました。


二・二八事件の間、学校は臨時休校となり、4月16日にようやく授業が再開されました。当時の台北市長、游彌堅氏が董事長兼校長に就任し、淡水中学と淡水女学校は合併し、私立淡江中学男子部と女子部となりました。


1948年3月、淡江中学の男子部、女子部は再び、別々の経営となりました。その後、淡江中学の経営権は、分離・合併など混乱の時期を迎え、6年で校長が10人も変わったほか、政府から圧力を受けることもありました。こうしたことは、生徒たちにも影響し、淡江中学の誇りであったラグビー部の成績も、過去のように目覚ましいものではなくなってしまいました。


1955年になると、不安定だった情勢もようやく少しずつ落ち着いてきました。両校は再度、合併に向けた準備を始め、1956年に再度合併し淡江中学となり、着実に発展していきました。

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