228 事件は戦後の台湾史上、最も悲惨な事件であり、 今なおその傷跡は完全には癒されてはいない。長きに渡 る国民党の権威主義体制下、事件の史料が公開されるこ とはなく、真相の追究も出来ず、事件は台湾社会に大き な陰を落とし、消え去ることのない悪夢と成り果てた。 事件に対する国民党の言い分はお決まりのものだった。 歴史の解釈権を掌握した彼らは、228 事件は「武装反乱」、 「反国家的」暴動であり、参与者は「暴徒」、「反乱者」 であると見なした。1987 年以降、228 名誉回復運動の展 開後、政府は批判を受けて、ようやく致し方なく史料を 開放し、学界もまた228 事件の研究を開始した。今日ま での研究成果は豊富であるものの、228 事件の責任所在を 検証するまとまった著作はなかった。228 事件記念基金会 は受難者家族の切実な期待を受け、深く責任の重さを感 じ、今回の研究計画を推進することになった。学者らに 討議への参加を呼びかけ、2 年の月日をかけて原稿が完成 した。私達は史料の実証と歴史的文脈の分析を経て、歴 史に対する責任の所在とその軽重及び負うべき責任に関 する整理を試みたのである。
国民党は、228 事件の発生は台湾人が日本植民地統 治による「奴隷化」教育を受けために日本化して、国民 党の接収に反抗したためだと考えている。さらに、日本 の影響を受けたために中国文化を理解せず中国を排斥し た、共産党分子が内側から扇動して台湾人と接収人員と の間の溝を深めた、野心家たちが機に乗じて事件を拡大 させ、収拾がつかない状態にした、ゴロツキたちもまた 社会不安を煽った、などと考えているのだ。国民党の中 での228 事件の位置付けは、台湾人が中国を脱却して主 権者となるための反国家的暴動であり、参与者は暴徒、 反乱者なのである。
このような国民党の固定化された観点は実証研究に よるテストに耐えることは出来ない。ここ数年来の事件 に関する史料公開と研究成果は、既に国民党の観点を打 ち破り、228 事件の発生には別の歴史背景があることを指 摘している。台湾に来た接収官吏は勝者の立場から台湾 人を敗者とみなし、差別と敵視の心を以って、高みから 台湾を統治した。接収人員が要職を占め、台湾人は下層 に位置するのみで、その地位は日本統治時代と変わり無 く、依然二等国民のままであった。台湾は日本による50 年の統治を経て、既に近代社会へと邁進していた。台湾 人はまた、近代教育の薫陶を受け、近代的な国民観念、 公事を重んじ法律を守る精神を具え、中国社会と比較に ならない程進歩していたが、接収官吏はこれらの事実を 軽視し、逆に中国の悪習を以って台湾を管理し、汚職で法をねじ曲げ、公然と賄賂を収め、また血縁政治と特権 の独占により、社会的混乱を招いた。接収官吏は資源の 独占だけでなく、台湾の物資を中国へ送って利潤を貪り、 台湾の米・食糧不足、物価高騰、インフレを引き起こし、 生活は日本統治時代よりも更に苦しくなった。文化面で も、接収人員は台湾文化を差別し、至る所で台湾人の価 値観を排除し、また抑圧したため、台湾人と中国人との 間に文化認識上の対立と衝突が生まれた。これらの政治、 社会、経済、文化的要素が228 事件勃発の原因となった のだ。1947 年2 月27 日のタバコ事件は、ただ爆発の導火 線に火をつけたに過ぎない。国民党は事件の原因を考え ることなく、逆に台湾人民の民主的改革要求を抑圧し、 事態を曲解し、台湾人の武装反乱と共産党の内側からの 扇動による事件だと言ったのである。実際には228 事件 は武装反乱ではなく、参与した民衆は暴徒でもなかった。 そうではなくて、まず国民政府の台湾統治政策の失敗が あり、民衆が抗争を通じて、改革を求めたのであった。 国民政府は改革の道を考えず、反対に「武装反乱」鎮圧 の名の下に、中国から軍隊を呼び込み、農村討伐、知識 階級及び民衆の逮捕銃殺を行った。事件後、国民党政府 は事件の真相を覆い隠し、不満分子を厳格に監視、抑制 するなどして、人々が形のない恐怖におののかねばなら ない空気を造り出し、228 事件を台湾社会最大のタブーに してしまったのだった。
228 事件発生前、福建台湾監察使の楊亮功は1946 年 1 月、4 月、10 月と3 回に渡って視察のため台湾に派遣さ れた。楊は、台湾に社会不安が広がっており、陳儀の施 政は改革すべきだと報告したが、陳儀は中央政府の注視 を受け入れなかった。国防最高委員会は1946 年7 月、劉 文島を指名して「清査団」を編成させ、調査のため台湾 へ派遣した。劉は貿易局長の于百渓と専売局長任維鈞の 汚職の事実を指摘したが、陳儀は彼らを助け、2 人は結局 保釈されて追及されることは無かった。陳儀が深く蒋介 石の信頼を得ていたために、これらの調査報告は全て陳 儀の地位を揺り動かすことはできなかったのである。
事件発生前、国民政府主席の蒋介石は党(李翼中)、 政治(陳儀)、軍(桂永清)、特に保秘局からの報告を通 じて、台湾情報を掌握していた。事件発生後、中国の上 海、天津、南京等にあった台湾人コミュニティ及び台湾 228 事件処理委員会と民間人はみな、中央政府に対し台湾 への派兵を行わないよう呼びかけ、更に陳儀の処罰、参 与した民衆の赦免を求めた。しかし蒋介石は陳儀らの報 告を信じ、3 月5 日に第21 師長劉雨卿を指名すると、秩 序維持のため台湾に派兵した。軍隊は台湾到着後、直ち に殺戮と農村鎮圧任務を展開することとなった。
3 月15 日、中国国民党は第6 期中央執行委員会第3 回全体会議を開き、3 月22 日の第8 回会議開催までに、 劉文島ら55 人の連署による提案を通過させ、陳儀を免職 ・調査処分にした。しかし蒋介石が動いたため、この議決 は取り消されてしまったのである。陳儀は蒋介石の庇護 の下、5 月6 日に国民政府顧問へと職務を変え、翌年6 月 には浙江省主席へ抜擢された。高雄市民を銃殺した高雄 要塞司令官の彭孟緝もまた事件後重用され、台湾警備司 令官へと昇進を遂げたのだった。
蒋介石の台湾人民の実情に対する認識は浅く、台湾 人の呼びかけや楊亮功、劉文島らの提案を受け入れるこ とが出来なかった。逆に台湾人民の改革要求、不公平へ の抗議を、中国脱却を意図し、中国を裏切る行為だと考 えたのである。そのため、派兵及びに鎮圧を行い、台湾 に大きな被害をもたらしたのだった。蒋介石は国民政府 主席を務める国家最高指導者であり、党、政府、軍隊に 対する特権を掌握していた。彼だけが台湾への派兵決定 をなしえ、また彼の支持があったからこそ、陳儀らは台 湾の民意を軽視し、好き勝手に振舞えたのである。さら に、彼が黙認したからこそ、軍隊も不当な逮捕を繰り返 し、審判を経ずに無辜の人々を銃殺しえたのだ。したが って、蒋介石は事件の趨勢に決定的影響を与え、鎮圧を 決定した元凶として、最大の責任を負うべきなのである。
戦前、陳儀は蒋介石の信頼を得て1933 年福建省主席 を務め、1935 年の台湾博覧会開催時、中華民国政府を代 表して見学のため来台した。1944 年4 月17 日には「台湾 調査委員会」主任委員に任命され、台湾関連事務を担当 した。1945 年8 月15 日、日本が戦争に負けると、同月 29 日に台湾省行政長官へ任命され、台湾省警備総司令官 を兼任した。こうした経歴から、陳儀は国府官吏きって の台湾通であるように思われる。しかし、台湾へ来た後 の施政ぶりを見ると、到底台湾通と呼べる人物とは言え なかった。
国民政府の台湾接収後、国民党特務組織、中央調査 統計局、国民党党部、そして孔宋集団等が次々と人員を 派遣し、権力争いを繰り広げた。陳儀はこれを制止する どころか、互いに闘争するがままにさせ指導力の無さを 示し、しかも人の使い方も分からず、地方政治の崩壊、 軍紀の混乱を招いた。不適切な接収過程の下、日系企業 は特権者たちの私有財産となり、台湾人の個人企業さえ も理不尽に没収された。経済政策として統制手段を用い、 専売と公営貿易制度を行ったことで、人民と利益を争う こととなり、ついに経済発展に悪影響を及ぼすようにな った。これらの政策は人民の恨みを買ったが、陳儀は調 整することもなく、更には部下たちをかばって責任を負 わせず、結果、社会不安と人心の不満とを醸成したので ある。
228 事件の発生後、陳儀は二面的な手法を用いた。 一方で228 事件処理委員会の改革要求を承諾し、ラジオ で台湾人民に街へ出ないよう呼びかけながら、もう一方 で分裂手段を採って、蒋渭川を利用して228 事件処理委 員会に内部衝突を造り出した。また、同時に南京政府に 事実と異なる報告を提出したのである。2 月28 日、蒋介 石に「謀略者がゴロツキと結託した」と報告し、3 月2 日 には中央に対し、派兵して台湾の反乱を平定するよう要 求した。3 月6 日に蒋介石へ呈した書簡には、台湾人民が 中国から離れ独立したがっているのは祖国への裏切り行 為だと指摘している。3 月7 日には、再度派兵、鎮圧の要 求を行った。そして陳儀は軍隊の3 月8 日基隆上陸とい う情報を知ると、即座に豹変した。228 事件処理委員会の 42 条要求を顧みなかったばかりか、このことから中国を 裏切り、独立を追求しているという罪名を着させたので ある。軍隊上陸後、陳儀は庶民が銃殺されるがままにし て阻止せず、しかも農村討伐を進めて無辜の人々を傷つ けたのだった。
鎮圧後、陳儀は功を挙げたと自認し、地位と権力に 執着を抱き、策動して台湾籍人士の連名電報を中央に呈 し、改組後も台湾省主席に留まれるよう画策した。後に 各方面からの非難により、ようやく転任となったが、程 無くして浙江省主席へと栄転したのであった。1949 年、 共産党軍隊が南下し長江を越えようとした際、陳儀は大 勢が決したと見て、南京上海杭州方面警備総司令官であ る湯恩伯に共産党に投降するよう説いた。湯恩伯がこの ことを蒋介石に伝えると、陳は逮捕され、後に台湾へと送られた。そして1950 年6 月、「兵を惑わし逃亡した」 罪により、死刑に処されたのである。
陳儀が228 事件により処罰されることなく、浙江省 主席へと栄転したことから、蒋介石の彼に対する信頼と 重視とが窺い知られる。後に銃殺刑となったのは、蒋介 石に対し不実で、共産党へ身を投じようとしたことに対 する処罰であり、決して228 事件に対する処置ではなか った。陳儀は台湾滞在期間中、台湾人に同情することな く、台湾人の主張を認めることもなかった。228 事件中、 陳儀は配下の軍隊が不足していると見ると、妥協したか のように装って台湾人を騙した。実際には時機を待って いただけで、結局は鎮圧行動を採ったのだった。
柯遠芬は陳儀に次ぐナンバー2 の人物で、警備総部 参謀長を務めた。2 月28 日の事件発生後、事件の舞台裏 で何者かが扇動していると考え、3 月2 日には政府の転覆 を狙う者がいるとして、台湾の高度な自治、独立、委託 統治等は祖国に対する裏切りである、という主張を行っ た。3 月3 日、情報統治部門責任者で警備総部調査室主任 の陳達元、憲兵団長の張慕陶、国民党特務組織局台北支 局長の林頂立等を召集すると、事変の舞台裏にいるはず の分子の捜査と動態の掌握を求め、反乱の平定へと備え た。3 月8 日、福建台湾監察使の楊亮功が増援部隊と共に 基隆に上陸したが、夜中台北へ兵を運ぶトラックに乗っ ているところを、途中待ち伏せ攻撃された。柯遠芬はこ れを台湾反逆軍の仕業と考えたが、民衆たちは警備総部 が事件の拡大を欲し、台湾人のやったこととして罪をなすりつけ、楊亮功に台湾人が武装反乱を起こしたと誤解 させて、鎮圧の合理的な口実を作り出したのだと考えて いた。同日夜、警備総部は圓山山兵器庫で「暴徒の進撃」 があったと言ったものの、民衆の側ではこれもまた捏造 だと考えたのであった。
国民政府援軍到着後、警備総部はただちに前面に立 って台湾エリートと民衆の殺戮を主導した。また、この 機会を利用して財物の略奪を行った。板橋にあった林家 の林宗賢などはすぐに略奪を受け、金銭的な賄賂を贈っ てなんとか生命だけは免れた。柯遠芬のやりたい放題の 行為は、楊亮功にまで「違法な殺人で悪事を働いた」と 言わしめたのである。
228 事件発生時、彭孟緝は高雄要塞司令官を務めて いたが、陰謀を抱いた分子が裏で組織立って計画的かつ 政治的な意図を背景に活動していると考え、共産党によ る策動であると認定して鎮圧を決定した。3 月5 日、凃光 明、范滄榕、曾豊明らが「和平条件」を寿山要塞司令部 に届け、彭孟緝との交渉を要求した。彭は軍事行動の準 備不足により、妥協を装い交渉を引き延ばす策略を選び、 翌日改めて協議するとした。3 月6 日午前9 時、高雄市長 黄仲図、参議会議長の彭清靠、凃光明、范滄榕、曾豊明、 李佛續続等6 人が山へ登り、「和平9 条件」を提出する と、彭は凃光明が銃を抜いて彭を暗殺しようとしたとし て、凃以下の者を逮捕した。そして6 日午後2 時、彭は 軍隊に高雄駅、高雄中学(高校)、高雄市政府と憲兵部へ 進撃命令を下し、民衆が死傷する惨劇となったのだった。
陳儀、柯遠芬、彭孟緝の3 人は終始鎮圧を主張した。 援軍到着前には故意に妥協的態度を見せたが、その実、 陳儀は事件開始と同時に武装反乱が起きたと南京政府に 報告し、派兵鎮圧を要求していた。この3 人共、台湾人 民鎮圧の責任を負うべきであり、陳儀は更に施政上の失 策、人員登用への不公正で社会不安を招いたことから、 更に重い責任を負うものである。
憲兵第4 団団長の張慕陶は柯遠芬と協力し、蒋渭川 に対して民衆を落ち着かせるよう誘導した。また、これ によって228 事件処理委員会を分裂させ、内部対立と混 乱を引き起こした。派兵部隊の台湾到着後、3 月10 日に は憲兵を伴って蒋渭川を捕らえた。しかしその事も認め なかったばかりか、更に「反乱分子」の追跡、逮捕を続 けるという悪辣ぶりを示した。警総副参謀長の范誦尭は、 憲兵で編成された特高組と林頂立が組織した特別行動隊 は重要な反乱分子の逮捕を担い、同時に警備総部と捕殺 の功労を争い合ったと指摘している。
基隆要塞司令官の史宏熹は3 月10 日から逮捕行動を 展開し、針金で逮捕者の手足を突き刺し、3 人或いは5 人 まとめて縛って銃殺後に海中へ突き落とした。その結果、 基隆港は全て水死体で満たされ、悲惨極まりない光景と なった。また、3 月11 日には軍隊に8 つの駅の包囲命令 を下し、駅の鉄道従業員を銃殺した。
第21 師団編成の師長、劉雨卿が担当した部隊は台 湾各地で民衆の銃殺を行った。陳儀は3 月21 日、各地に 「地方安寧保持」任務の実行を命じ、台湾を7 つの地方 安寧実行区に分け、「農村討伐」工作を展開した。各地の 軍政人員は機に乗じてゆすりや金銭の略奪を行い、公事 の名を借りて私腹を肥やしたほか、濡れ衣による殺人事 件が次々に起こった。張慕陶、史宏熹、劉雨卿の3 人は 命じられた任務を実行しただけだといえども、見境無く 民衆を殺戮し、その過程で金銭を掠め盗った。3 人はこの 鎮圧行動の共犯者なのである。こうした鎮圧行動の結果、 改組後の台湾省政府は、各地方政府に不法行為を厳しく 禁止する旨を通知しなければならなかったほどである。
戦後初期、警備総部調査室、国防部保密局、憲兵団 (以上、国民党特務組織)、国民党台湾省党部調査室(中 央調査統計局)等の機関は台湾各地に調査員とスパイを 配置し、台湾民衆の動向を監視した。〈許徳輝呈毛人鳳─ ─台湾228 事件スパイ業務報告〉と関連史料によると、 保密局は許徳輝に台北地区のゴロツキ250 人で「忠義サ ービス隊」を編成するよう指揮した。表面的には治安維 持を目的としていたが、実際には、「外省人」を殴打した り、「外省人」商店を焼き討ちするなどいざこざを拡大さ せた。また、純朴な青年学生に社会秩序維持への出動を 呼びかけた後、逆に学生たちへ罪をなすりつけてスケー プゴートに仕立て上げたのである。各系統の情報治安人 員は事件においてそれぞれの役割を演じた。それぞれ秘密電報を中央政府へ送り、台湾事変を深刻な状況である と誇張して伝えた。特に「外省人」の被害程度を明確に 示したほか、共産党党員が数百人ほどいて、事変を内側 から操っていると強調した。更には事件が単なる政治改 革要求でなく、権力の奪取という反国家的行為であると 断言することもあった。これらの秘密電報の目的は台湾 の安定を維持できない責任を逃れ、同時に陳儀の無能さ を示してその威信に打撃を与え、そこから利を得ようと するものであり、更には派兵と武力鎮圧を要求する理由 にしたのである。南京政府はこうした誇張された情報を 受け取って派兵鎮圧の決心を強めたのみで、台湾の政情 改善を助けようとはしなかった。
国民政府軍の台湾到着後、監察委員の何漢文と21 師 団副官処長の何聘儒の指示の中には、党、政府、軍、憲 兵、警備総部による報告会議の開催、進歩的人士の調査、 ブラックリストの作成、各地での問題分子の捕捉、暗殺 などがあった。こうした指示の下に殺害された人民は千 人を下らない。日ごろ情報治安人員は陰で台湾民衆の言 行を監視する役を演じたが、事件勃発後は、情報を手に 入れると内側から煽動し、後に罪をでっち上げて逮捕銃 殺するための証拠とした。誇張されたネガティブな報告 及び獲物を捕えようとする貪欲な姿勢を見せた情報治安 人員は、共犯の責任を担うべきである。
所謂「半山」とは台湾出身者で、日本統治時代に中 国へ渡って国民党に加入し、国民政府と国民党の中で働 いた者を指す。半山が持つ特殊な中国経験は、本土人の それとは比べようがなかった。こうした特殊な背景によ り、国民政府は台湾接收後、半山を台湾統治において重 用した。半山は本来なら中国政府と台湾社会間の橋渡し 役を演じるべきだったが、実際には戦後多くが要職を担 当し、接收の受益者となった。台湾の本土エリートとの 間で権力や利益を巡って競い合う関係になり、好ましい 仲介者を演じることは難しかったばかりか、本土人を排 斥することさえあった。国民政府官吏もまた全面的に半 山を信頼していたわけではなかったが、政策決定上の重 要な地位を与えた。半山は中国接収官吏の随従者を演じ ることしかできず、両者の間には上下関係が成り立って いた。
228 事件発生後、陳儀は省参議会議長の黄朝琴、省 参議会事務総長の連震東、国民大会代表の李萬居、国民 参政員の林忠実等、半山を調停役として用いた。これら の半山の多くは陳儀の立場に立って抗争の平定を助け、 台湾民衆の立場に立つことはなく、陳儀に対して権益を 求めた。
一部の半山は統治当局の重用を受け、実際に鎮圧行 動へ参与し、鎮圧の共犯者となった。例えば国民党特務 組織局台湾支局長の林頂立、軍職にあった華南銀行董事長の劉啓光、事件後警務処長を引き継いだ王民寧らが挙 げられる。台湾の人々の間では、事件後の「農村討伐」 工作に際し、半山の協力があったからこそ、軍警当局が 名簿を作成し、台湾エリートたちを逮捕出来たのだと広 く噂されたものである。
228 事件中、半山でも台湾人民の立場に立つ者もい た。当時の政府を批判して災難に遭遇した者の中には、 例えば《人民導報》社長で教育処副処長の宋斐如、三民 主義青年団嘉義分団主任の陳復志らがいた。国民政府に とっては、ただ素直に従う者だけが重用するに値し、抗 議する者は目の敵と見なされた。たとえ中国人の「純度」 が比較的高い半山でも同様に銃殺の運命に見舞われるこ があった。
国民政府の台湾接収後、党、政府、軍、特務組織の 各勢力が台湾に進入し、互いに地盤を奪い合った。台湾 人が国民党の派閥や権力構造を明確に見分けられていな い時期に、訓政体制の下、党と国府の派閥闘争に巻き込 まれたのである。
接収時に派閥間で台湾の資源争奪が行われる中、国 民党台湾省党部主任委員の李翼中は社会団体をコントロ ールし、押さえつける責任を負った。台湾省政治建設協 会は省党部の協力を得て創立されたが、積極的に早期の 地方自治選挙実施要求を行ったため、李翼中と陳儀の不満を招いたのである。228 事件発生後、陳儀等は指導者の 蒋渭川に民衆を落ち着かせるよう求め、派兵の時間を稼 いだのだった。援軍の台湾到着後、陳儀は政建協会が事 件中、治安維持のため公然と台湾人の旧日本軍兵を召集 したという理由で解散命令を下した。幹部の多くは逮捕 された。中にはなんとか身を隠し通して海外へ逃亡して、 難を逃れた者もいた。反対に半山を主とする「台湾省憲 政協進会」は、事件後「台湾新文化運動委員会」を組織 し、国民政府の政策を支持し、その多数の構成員は政界 で成り上がっていった。この事例からも分かるように、 忠実な半山だけが国民政府の重用を受けたのだった。
3 月8 日、国民政府軍が台湾に到着した後、新聞を 始めとするメディアは清算され、《民報》社長の林茂生、 《新生報》日本語版編集主幹の呉金錬、社長の阮朝日、 人民導報前後任社長の宋斐如、王添灯、《大明報》編集長 の艾璐生、《新生報》台中支社記者の陳要南、嘉義支社主 任の蘇憲章、高雄支社主任の邱金山らが殺害された。《民 報》編集長の許乃昌と総括編集長の陳旺成は指名手配さ れて逃亡した。《民報》、《人民導報》、《大明報》と《和平 日報》は同時に差し押さえられた。これは国民政府が言 論思想の自由を封じ、不満分子をを抑圧した明らかな証 拠である。
メディアの責任を追及するには、「中央通訊社」の責 任を問わないわけにはいかない。中央通訊社は国民党の 党営機関で、情報収集の職責を負っていた。戦後、中央 通訊社は台北支社を設立し、責任者を葉明勲とした。その主な業務は台湾を取材したニュースを南京本社に伝え ることであった。最近「中央社秘密電報原稿」が見つか り、その電文内容が陳儀政府と軍側の立場に立ち、台湾 民衆の意見と社会動乱の実情を軽視し、更には南京政府 に派兵、鎮圧を提案するものだったことが分かった。中 央通訊社は南京政府が台湾の政情を理解するための重要 なパイプであったため、その伝達情報は蒋介石の派兵決 定に対し一定程度の影響を及ぼしたはずである。したが って、中央通訊者は偏った報道、真相の曲解、誤った情 報の伝達に対して、責任を負うべきなのである。
統治者は常に各種チャンネルを通じて社会大衆を理 解し、また監視、抑制しようとするが、スパイはその中 の一つである。228 事件中、228 事件処理委員会が中山堂 で会議を開催した際、潜入スパイが傍らで監視していた という話、圓山近くで3 月8 日、海軍事務所等の機関が 所謂「暴徒」から攻撃を受けたという話、3 月9 日の明け 方には楊亮功が「暴徒」によって狙撃されたという話が ある。この三つとも軍警当局が画策し、スパイは当局が 望む状況を作り出したのだ。中でも許徳輝が指導した「忠 義サービス隊」は、軍隊が来台する前は治安維持の役割 を装い、国民政府軍の到着後は役柄を即座に変えて、台 湾人民を逮捕する手先となったのだった。
軍隊は台湾到着後に鎮圧と農村討伐を行い、「連座 法」により民衆に武器と「悪人」を差し出すよう脅した。この過程の多くの殺害事件は密告者と陥穽者の報告のた めに引き起こされたものであった。これは恐らく巻き添 えになることや密告されることへの恐怖によるものか、 或いは混乱に乗じて私憤を晴らすため、または政治闘争 に利用された結果とも見られる。密告者らの身分や行為 の多くは公開されることはなく、事後に名前を知ること、 ましてやその具体的身分を議論することは困難である。 たとえ名前や身分を知ったとしても、同様に当時密告し たり陥穽を弄したという具体的な証拠を掌握するのは極 めて困難である。
スパイ、密告者、陥穽者は情報を提供し、228 事件 の被害を更に拡大させたことに対する責任を有する。し かし情報治安部門と統治者が提供された情報に調査を加 えることなく、投書などの一方的な言葉を鵜呑みにし、 その結果被害が引き起こされたのであるから、その責任 は情報提供者らよりも重くあるべきである。
228 事件は台湾に甚大な被害をもたらした。それに は無形、有形の被害がある。多くの台湾社会のエリート たち、例えば民意を代表する弁護士や医師、司法官、検 察官、大学教授、教師、商工業指導者、メディア関係者、 学生、大衆らが逮捕され、ある者は戻らず、今尚行方が 知れない。ある者は公衆の面前で銃殺され、死体は見せ しめにされた。ある者は銃殺された場所も分からず、今 も骨さえ残っていない。ある者は財産を奪われ、今尚返還されていない。その悲惨な光景は目を覆いたくなるよ うなものばかりで、ただただ、心が沈む。台湾のエリー ト階層はこうして破壊され、殆ど死傷し尽くし、生存者 は姿を隠し、再度政治へ関与することはなかった。行政 院の228 研究グループによって推定された死亡人数は約 18000 人から28000 人であるが、依然として確実な数字は 掌握は出来ていない。
無形の被害は推定が不可能である。228 事件発生後、 国民政府は農村の討伐を行い、敵対者を捕え、社会は不 安な空気に覆われることになった。誰もが狼狽してどう していいかわからなくなり、台湾人は事件について話を しようとしなくなったのである。228 事件を経験した世代 の人々は子供たちに対し、「耳が有っても口はない」、つ まりは多く聞いて話は少なく、そして政治に関わらない よう言い聞かせた。228 事件はタブーであるだけでなく、 歴史の集団的記憶の喪失であり、台湾人はその気高い誇 りを失い、国民党の権威主義的統治に服従したのであっ た。国民党もこうした状況に乗じて様々な障害を取り除 き、積極的に中国化政策を推進し、文化的な覇権を築き、 台湾本土文化を抑制した。そして1950 年代以降の白色テ ロ時代を迎えることになった。
228 事件は台湾最大のタブーであり、国民党の党国 一致体制の下、このタブーに公然と挑戦する者はいなか った。1980 年代になってようやく民主化運動が盛り上がった後、228 正義平和運動が国民党権力に公然と挑戦す るようになった。228 事件名誉回復運動の過程は衝突や対 立で緊迫に満ちながらも、三つのタブーを打ち破ること に成功した。一つは政治タブーの打破である。228 事件は もはや武装反乱、暴動であり、暴徒、反乱者の仕業とは 見なされなくなったのである。二つめには歴史タブーの 打破であり、これにより228 事件は公開研究されるよう になった。台湾史研究にタブーはなくなり、国民党の党 国一致権威主義体制による歴史観に挑戦することが可能 になった。三つめは文化タブーの打破である。作家や芸 術家たちはもう逃避することなく、228 事件を題材とし て、台湾の文化的特色を備えた作品を創作するようにな った。この「三つの打破」は228 事件を台湾の重要な歴 史的資産へと昇華させたのである。
民主化への過程で、228 事件に関するタブーは解消 された。事件は、元々台湾歴史文化上の一大事件であっ たのに、国民党の党国一致権威主義体制による影響が台 湾社会に浸透したため、人々は中国政治の伝統的な人治 思想によって、人物評価をするようになり、統治者の外 面を良く見せ、その罪を免除し、蒋介石の派兵決定は陳 儀等の誤った情報と欺きによるものだと言うようになっ た。また第2 次世界大戦後、すぐに国民党と共産党が対 峙しため、国民政府が強硬な鎮圧を採取したのは、止む を得ない苦渋の判断であったとか、台湾人が先に「外省 人」を殴打したからこそ、「外省人」が後に報復したので あるとか、或いは、第2 次世界大戦後、中国各地で多くの抗争が発生し鎮圧がなされたのであって、228 事件の如 き事件は台湾だけに発生したのではなく、また中国の王 朝交代時に常に発生する殺戮、鎮圧であるので、228 事件 は取り立てて大きな事件とはいえないという言い方があ る。これらの言い分はみな統治者のための弁解であり、 民主、人権理念の思考の上に立ったものではない。1970 年代には新しい人権理念が弱者の教育、歴史、文化権を 尊重するよう強調し、弱者の権益を守るようになった。 事件当時の台湾人民は統治される側で、弱者であった。 主導的地位にあった国民党政府は、当然人民の生活に配 慮し、人民の声に耳を傾けるべきであった。改革要求に 直面した際、これを謙虚に受け入れるべきであったのに、 国民党はそうしなかったばかりか、公権力を濫用して派 兵、鎮圧した。さらに事後には国家による暴力行為を正 当化し、統治されていた台湾人民に罪を転嫁したのであ る。権力者の暴虐さと尊大さに満ちたこうした態度は人 権、民主、自由といった普遍的原則に背くものである。
台湾は民主主義の変革期にある。これまでの民主化 に伴う多くの成果は誇らしいものであるが、社会正義の 実現は相変わらず政治的現実や族群間の調和、寛容とい う名目の下で軽視されている。また、衝突と社会不安が 再び起こることを恐れるがあまり、統治者の歴史的傷害 に対する追及に及び腰になっている。しかし歴史の真相 を正視しないことには、事件の落とす暗い影から抜け出 し、国民が相互に思いやることはできないのである。政 治上は和解することができても、これを以って歴史の問 題を解決することは出来ない。そこで私達は228 事件で人民を鎮圧、虐殺した元凶と関係者について検証を加え た。そして、事件の反省を通じて社会正義と公正な歴史 が台湾にもたらされ、台湾人民が痛ましい歴史の教訓を 心に刻み、共に民主化の成果を慈しむことができるよう 願っている。同時に私達は、228 事件が歴史研究者だけで なく、研究領域の垣根を越えて共同で研究する対象であ ることを望んでいる。民法学者の黄茂栄と刑法学者の陳 志龍は、228 事件の鎮圧者は歴史的な責任を負うだけでな く、刑事的、民事的責任も負うべきであると指摘してい る。第2 次世界大戦後、ユダヤ人がナチスのホロコース トの責任を追及したことは、人々が歴史事件に対処する 際に参考とすべき優れたケースであり、台湾の歴史もこ のような省察を必要とする。そうしてこそ、人権と社会 正義が台湾へ根を下ろすことができるのである。
(張炎憲は現国史館館長で、財団法人228 事件紀念基金会理事 兼真相研究グループ召集人)