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228事件責任帰属研究報告

CONTENTS

編集者のことば

序文

新書発表および座談会挨拶

第1 章 責任明確化は社会正義実現への第一歩

第2 章 事件の発生と台湾が被った痛手

第3 章 南京政策決定階級の責任

第4 章 台湾の軍政階級の責任

第5 章 事件に関係したその他の人々の責任

第6 章 228 事件虐殺行為の刑事責任

第7 章 結論

第5 章 事件に関係したその他の人々の責任
李筱峰・何義麟

 

 228 事件の発生後、台湾の民間社会は政府機関現職 員の所謂「半山」に対して批判的な目を向け、彼らが台 湾人を売ったと考えた。そのほか、多くの口述歴史記録 において、情報治安機関の密偵を担当した例、或いは密 告で他人を陥れた例も少なくない。これらの人々もまた 当然部分的な責任を担うべきである。一方、政府の調査 レポートによれば、統治者は事件の発生、拡大への罪を 現地社会の名士たちに負わせた。幾人かの社会団体幹部 或いはメディア関係者は、騒動を引き起こしたという罪 名を背負わされた。民間からの視点或いは政府報告の別 に関係なく、事件に関連した団体または個人について、 私達は全て再調査した上でその責任程度を明確に整理 し、人によってはその潔白を証明しなくてはならない。

 

 所謂「半山」とは台湾出身者で、台湾で一定期間生 活した経歴を持ち、その後中国大陸での生活経験もある 者を言う。特に国民政府陣営に身を投じたものは、中国 の政治文化をある程度広汎に目にしていた。こうした経 験は、長期間日本の植民地統治下にあり、情報が制限さ れていた本土人は遠く及ばないものであった。そのため、 半山は本来なら中国政府と台湾社会間の橋渡し役を演じ るべきだったのだが、多くの半山にとって台湾帰還前の最も重要な役割は、わずかに中国政府に台湾の「回復」 を呼びかけるのみであった。何人かの半山は言論を通じ て国民政府に台湾の接収管理における注意事項を提出し たものの、実際のところその影響力は限られており、国 民党統治当局は半山の提案に対し、軽視するどころか否 定的でさえあった。

 

 戦後、半山は台湾に帰還後、次々と各種の党、団、 軍、政治の各要職を担った。本来陳儀政府はこの半山集 団を、長官公署と台湾民衆間の架け橋として重用するよ う期待していたが、一部の半山は職務上の機会を利用し てあれこれと策を弄し「引継ぎ」過程中に受益者となっ た。その上、彼らは本土エリートと競争関係にあり、結 局権力を握った半山が戦後初期に政府と民衆の架け橋と なる責任を果たすどころか、逆に官民間の障害となった のである。事件勃発当初、陳儀は半山を使って調停や、 秩序回復を試み、治安確保を図ろうとした。例えば、省 参議会議長黄朝琴、省参議会秘書長連震東、国民党代表 李萬居、国民参政員林忠等、これら半山は調停役として 立ち、実際には特に積極的というわけではなかったが、 能動的或いは受動的に陳儀当局が抗争を平定するのを助 けた。

 

 その他、別の半山グループは更に統治当局に依存し、 実際に武力鎮圧行動に関与して、統治者の鎮圧行動の共 犯となった。このうち国民党特務組織局台湾所所長の 林頂立、かつて軍職にあった華南銀行理事長劉啓光、新 竹地区防衛司令兼県長蘇紹文等は最も典型的な人物である。その次に、事件後警務処長を引き継いだ王民寧及び 台中区防衛司令の命を受けた黄國書もまた、政府の武力 鎮圧過程で相当に重要な役割を演じた。そのほか、半山 が最も非難されることには、ブラックリストを軍の情報 部門に手渡し、それが台湾社会のエリート除去に用いら れたことが挙げられる。一般市民の多くは、武力鎮圧後 に展開された「地方安寧の維持」及び「農村討伐」の過 程において、仮に半山の協力がなければ、警総当局が「暴 動首謀者」を列記したリストを逮捕対象とすることもな く、各地の社会エリートが逮捕され殺されることもなか っただろうと信じている。実際の状況がどうであったに せよ、半山は確かに事件で利を得た。このことは、その 後多数の半山が高い官位を得たことから明らかである。

 

 それに比べ、政府の調査報告では事件の起因を「政 治的野心家の吹聴」及び「共産党の機会に乗じた扇動」 と考え、事件の発生と拡大を「共産党」や「三民主義青 年団」、「台湾省政治建設協会」等の団体指導者の罪とし て咎めている。そのため、鎮圧期間中、共産党員の追跡 以外に、政治建設協会の解散命令を下し、三青団台湾区 団を粛清した。しかし、各団体の組織と活動とを分析す ると、共産党員の事件画策はあり得るものではなかった。 三青団については多くの幹部が抗争活動に関わったもの の、皆個別的な行動であり、組織的な行動ではなかった。 三青団は決して一般的社会団体ではなく、訓政時代に党 と並ぶ地位を有した特殊組織である。戦後多くの台湾左 翼分子が三青団台湾区団に加入し、改革の気質を持つよ うになったので、政府の腐敗汚職には当然ながら相当の不満を抱えていた。事実上の党が主導する国民政府と党 団の二元体制の下、事件前には早期から台湾党団、軍政 など各派の闘争が行われていた。事件後にも派閥間衝突 は続き、さらに三青団幹部の抗争もあったが、概ね合理 的な政治改革を要求していた。こうしたことから、三青 団の責任を追及するよりも、国民政府体制の矛盾につい て探求する方が賢明だと言えよう。

 

 訓政体制の問題以外に、国民党の省党部委員長李翼 中は社会団体をコントロールしたことに対して、一定の 責任を引き受けなければならない。省党部が舞台裏でコ ントロールしようとした団体として代表的なものとして は、政治建設協会が挙げられる。政建協会は省党部の協 力を得て成立し、それによって合法的な地位を獲得出来 た。しかし成立後には積極的に早期の自治選挙実施要求 を提出するなど、省党部の完全な従属団体というわけで はなかった。李翼中と陳儀は協会の態度に不満ながらも、 事件発生後はなお指導者の蒋渭川に民衆をなだめるよう 協力を求め、これにより軍隊派遣の時間を稼いだのであ った。しかし鎮圧が始まると、政府は政建協会が事変中 に公然と日本時代の退役軍人を招集し、国家を裏切った とする理由で解散命令を下した。成立から解散まで、政 建協会はずっとCC 派に属する省党部が意のままにでき る団体であった。抗争期間中は陳儀政府に引き延ばし策 の駒とされ、利用された後には解散させられた。しかも 鎮圧の殺戮過程中の傷亡者は極めて多く、大勢の幹部は 行方不明となるか殺され、あちこちへ身を隠し島外に逃 亡した者たちだけが運良く難を逃れることができたのである。このように、政建協会もまた最も深刻な被害を受 けた社会団体だと言うことが出来る。それに比べ、半山 人を主として構成された「台湾省憲政協進会」は、事件 後「台湾新文化運動委員会」を組織し、その構成員の大 多数が政界で成り上がったことから、この団体の責任者 たちもまた最も追及すべき人々に違いないのである。

 

 事件後、政府の検討報告はまた、メディアも事件の 部分的責任を負うべきだと指摘している。「世論に不適当 な影響を与えた」ことを事変の原因の1 つとしているの だ。つまり、民衆の反政府行動を新聞言論が過度に鼓舞 した、或いは記者が報道の自由を濫用したとしている。 しかし学者の分析によると、事件発生の原因は決して新 聞雑誌の言論が過度に自由だったためではない。実際、 政府はメディアに対し厳格な管制を行っていたため、メ ディアはただ事実を報道していたに過ぎないのだ。しか し、ありのままの報道で紙面に毎日出現したニュースは、 大部分が軍人の発砲、警官の紀律違反、官吏の汚職、物 価高騰等などであった。社会の実情を隠匿することは出 来ず、しかもニュースは急速に広まり、事件の発展に確 実な影響を及ぼしたが、このことからメディアが事件拡 大に責任を負うべきとは認められない。事件拡大の原因 としてもう一つ、矛先がラジオ局に向けられることがあ る。政府は、処理委員会成立後に各地の無線ラジオ放送 局が民衆に占領され、その放送内容が台湾人民の反政府 感情を鼓舞し、台湾同胞の排外的な怒りを高めたと考え ていたのだ。このような非難告発は完全に一方的なものであり、事実は地方名士と一部の官吏がラジオ放送局へ 赴き、民衆に冷静になるよう呼びかけたのであった。

 

 メディアの責任を追及しようとするならば、最も問 題とされるべきは中央通訊社である。国民党政府による 訓政統治体制の下、党運営の中央社は情報収集機関とし て利用された。戦後中央社は台北支社を設立し責任者を 葉明勲とした。主な仕事は台湾で取材したニュースを南 京本社に伝えることであった。しかし、最近見つかった 幾つかの「中央社秘密電報原稿」を研究者が分析したと ころ、その報道は完全に陳儀政府側、更には軍サイドの 立場に立ったもので、電文には絶えず外省人が殴打され たニュースが見られ、社会の実情或いは民衆の感情、台 湾人が銃殺されたといったニュースは省略され、しかも 政府に軍隊派遣を提案するものだった。中央社は南京政 府が台湾政情を理解する為の重要なパイプであり、その 情報は蒋介石の軍隊派遣決定に必然的に一定の影響を及 ぼした。

 

事件に関連した人員の責任問題を追究する時、ある 意味最も末端の役割を演じた、或いは共犯の一部と見な すことが可能なのは、情報機関であり、更には上層権力 機構への情報提供者である。こうした役割には、俗に言 う「スパイ」並びに密告者や陥穽者が含まれる。関連史 料の中で、我々は所謂「スパイ」或いは「密偵」の存在 を見て取ることが出来る。こうしたスパイが情勢を激化 させたと見られる事例は多くの史料中に散見され、中には信用出来るものもある。そのうち、最も顕著な事例と して次の三つがある。まずは、中山堂での会議期間中、 処理委員会が32 条の原案を42 条乙節とするよう要求し たことである。次ぎに、3 月8 日、円山一帯で所謂「暴動 民」が海軍事務所等の機関を攻撃したとする話。最後に、 福建省台湾監察使の楊亮功が台湾を訪れた際、基隆から 台北への道中に「暴徒」に狙撃されたとするものである。

 

 3 月8 日以後、軍隊が台湾に到着し鎮圧及び殺戮を 行う中、当局は多くの暴動への直接参加者或いは反抗者 を逮捕、殺害した。しかしいずれの暴動にも関与しなか った、社会を導いていくべきエリートである多くの人民 代表、教授、弁護士、作家、医師、記者らもほぼ同時期 に逮捕され、殺された。3 月20 日から、長官公署は全島 各地で所謂「農村討伐」行動を展開し、連座法による脅 迫によって、民衆に武器と「悪人」を差し出すよう要求 した。「農村討伐」の過程において、各地で絶えず逮捕者 が生まれ、死刑が執行された。しかもそのほとんどは公 判を経ていなかった。大粛清の背後には、多くの密告者 や陥穽者が隠れている。密告者たちは連帯責任を恐れた こともあるのだろうが、往々にして、この機会に乗じて 公事の名を借り私憤を晴らし、また政治闘争を進めたの である。

 

 スパイ、密告者、陥穽者の行為の多くは公開されて おらず、実名を知ることも、その具体的な身分を議論す ることは難しい。そのため、具体的な個人の責任を追及 することは相当困難である。たとえ実名或いは具体的な身分が判明したとしても、当時密告或いは陥穽を弄した いう具体的証拠を掌握することは極めて難しい。しかし、 私達はたとえこれらのスパイ、密告者、陥穽者の具体的 な身分を掌握出来たとしても、全責任を彼らに負わせる べきではない。これらのスパイ、密告者等が提供した情 報は、ただ上層の情報治安部門及び統治者が参考とする ために提供されただけであり、上層の情報治安部門と統 治者こそ証拠確認の責任を負うべきだったからだ。もし も彼らが情報を精査せず、ひたすらスパイ、密告者、陥 穽者の一方的な情報を採用した結果、災いを引き起こし ていたのであれば、その責任は情報提供者よりも重くあ るべきである。更に、統治者がスパイを潜伏させて情勢 の激化を試み、ある種の政治的目的の達成を図ったのな らば、スパイ或いは潜伏者はただの道具に過ぎず、主謀 者たちは当然ながら更に大きな責任を負うべきなのであ る。

 

(李筱峰は現国立台北教育大学台湾文化研究所教授:何義麟は 現国立台北師範学院社会科教育学科副教授)

 

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